昭和五十六年六月七日 朝の御理解

 御理解第六十二節 「昔から人もよけれ我もよけれ、人より我が尚よけれと言うて居るが、神信心をしても我が身の上のおかげを受けて後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じ事。一段一段進んで行くのじゃ。俄に先生にはなれぬぞ。」


 今朝方から“オレンジ色の太陽の子、夢が大きくふくらむ”というような事を頂いて目ざましのおかげを頂いた。これは何かテレビでコマーシャルをやっております。そういう中にそんな文句があったと思うんです。オレンジジュースかなんかのね。
 太陽の子、オレンジ色の太陽の子。まさしくまあ私の事だろうと思うのです。皆だってそうですよね。皆だって神様の氏子ですけれども、ただオレンジ色という所が違うのじゃ無いでしょうか。又夢が膨らむという所が違うのじゃ無いだろうかと思います。そりゃ皆さんもそれぞれ夢は持っておられない事はありませんけれども、その夢が一歩づつでもその夢に近づいて行けれるという、そのこの道を行けば人間が真実助かるという事は、もうこれ以外にない。まあそういう一つの基盤のようなものが私の心の中にはっきり例えば宗教によって助かる、信心によって助かると数千年の歴史が物語っておるように、さまざまな宗教がございました。その宗教によって助かりたいと願って、そしてその本当の助かりになり得た人が何人あるだろうかといよいよ極めて行こうとすれば、茨の道でありいよいよ極めて行こうとすれば助かりようのないあまりにも、深淵な教えとでも申しましょうか。、とてもただ誰でもがその気になれば助られるといったようなものとは、違った内容のものであった。
 今合楽で言われておる合楽理念に基づく教祖金光大神の御教えをいよいよ深くしていけれる、広くしていけれる。その気になれば誰でも稽古が出来れる、誰でもそのお徳も力も受けられる手立てが合楽理念による。これはもう世界万国津々浦々、もうどこの人種どこの氏子にあってもおかげの頂けれる手立て、合楽理念を以てする外はない。しかも人間が人間らしゅう生きながら茨の道でもなからなければ十字架を背負うての生涯といったようなものではない。それこそ有り難い、勿体ないで行けれる手立てがある。
 それはもう合楽理念を以てする他ないと、こう私は分からせて頂いた所がです、まさしく太陽の子でありオレンジ色の太陽の子であり、いよいよ大きく夢はふくらんでいくというそういう事じゃないかと思う。
 だから皆さんの場合でも本当に私共が幸せになって、しかもそれが子にも孫にも伝わっていけれるとこの世だけではない。あの世までもこの合楽理念を持って行くならば魂の助かりは間違いないとこう確信が出来た所に、私は私共の助かりという事になるのじゃないかと思うのですね。だから今日の御理解を頂きますと、先ず我が身におかげを受けてとおっしゃる。云うならば人間がいよいよ幸福になっていけれる力が受けられる、お徳が受けられるというその根本理念が合楽理念なんだ。だからその合楽理念を日々こうやって聞かせて頂いて、もうこれ以外にないと、こう定めが心についた所にもうあなたは助かったという事になるのじゃないでしょうかね。これを限りなく極めていこう、それを広いもっと深いものにしていこうという事には又限りがない。それこそ一生が修行じゃとこう仰せられるね。けどもそこに基づいた時に私は人間の助かり、これは難しい事ではない。世界のどこへ行っても、これが説かれていくならばそれが合点がいくように説いてあるのだから、これは世界中に広がっていけれる内容を持っている。こう例えば突っ込まれたから、ここがおかしいじゃないか、これは本当じゃないじゃないかと言う所がない。ね、勿論迷信的な事を看板のようにして来た宗教が沢山ございました。けどもそういう迷妄的なものを打破してしまって人間が人間らしゅうこの世に生きて、しかもその人間が天地とのつながり交流という事が一番素晴らしい生き方であり、天地の道理に基づく生き方が、ならその天地の道理に基づく生き方は難しいかというと、いつも申しますように誰でもが行じようと思えば行じられる。体得しようと思えば体得出来れる内容であり教えである。但しその身際めがつかず稽古しようと思わなかったら何十年信心しても同じことという事になるんです。だから問題はなら先ず我が身の助かる手立てとしてここ四、五日あちらは何というところでしょうか。三猪郡じゃない、あちらから今村という若い青年、あちらの次々とあちらから御参拝があります。秋永英治君のお得意さん。それが導かれて一人が助かり、二人が助かりそこの辺の一家一門が、部落中が助かっていきよる所があります。
 そこの熱心に参ってくる今村さんという方のまあだよく詳しくも聞いておりませんけれども、その人の息子さんでしょう。あのうここで暫く修行させて呉れというから、合楽の信心の見極めがつかなければ兎に角、頭がぼんやり体が悪いという。まあ仕事にもならないというような。修行に来ております。昨日ここへ出て来てから本当に、ここに出て来た途端から頭がすっきりする、体が何とはなし自信がついたような感じがすると、お礼とももうこれで帰りますと言うのじゃないかと思うような感じのお届けがあったんです。だから私はここでね、今まで頭がすっきりしなかったのが、ここへ来た途端に頭がすっきりして嬉しかろうと私が。嬉しかろうかて、自分の体がどうもあの不健全でどうかどこがどうという事もないけれども、仕事する気にもなれない、頭がぼんやりしている、かすんでくるという訳ですね。ずうっと。それがすっきりしてきたんだから嬉しかろうが。嬉しいですと、その嬉しい心でね、一つ折角ここに御縁を頂いたのであるから、云うならば人間の助かりの理念、根本的な所を体得して帰るなら、帰らなければいけないよという風にまあ申しましたですけどね。そのやっぱり嬉しい心で稽古しなければ駄目です。それにはここで皆さんが信心の稽古を前の日の壮年会の発表の、それこそ神様を見近かに感じながらの稽古が出来て居るという話を、あのうこれは加藤さんでしたけれども、九という字が三つ続いた。九が続くという事は感心しないけれども、この三つ続いて居るという所が三つが九だからこりゃ三九(サンキュウ)になるからこりゃ有り難く受けるべきだと、普通で言うなら有り難く受けられぬ事でも有り難く受けて行く。これは、その時に安藤さんも一緒にお参りしてあった。安藤さんですね、あちらの支部長さんです筑豊支部の。もう兎に角加藤さんの所へ行って感心します事はね。店が繁盛して居る事だけではなくて、もうそこにお座敷に上がって通らせて貰うと神様が麗々しゅうお祀りしてあってお供えがきちっとして、どげん信心のなかもんでん拝まにゃおられんごとあのきちっとしてあるという事です。それだけ神様を大切にする。そして云うなら皆さんも御承知でしょうが夫婦でああしてお参りになってお届けはどういう事かというと、一日千回の喜びというておられる。だから一日千回の喜びというような信心に夫婦の者が取り組んでおるけん不平どん不足どん言う暇はなかち。もうそれこそ九州一と言われる位にそのお店が繁盛する訳。いわゆる合楽理念に基づく、云うならば商売です。ね、そしてなら神様のお心である成り行きをいよいよ大切に尊び、しかもお祀りしてある神様をいよいよ大切にする。云うならば信心、真心ではありません。心行、信行、家業の行が云うなら出来て居る訳ですね。最近は心行、家業の行だったけれども、昨日一昨日、昨日からですか、信行がいっちょ増えたね。心行、信行、家業の行。云うならば信行というのは、こうして皆さんが朝参りをなさるという事も信行に入るでしょう。お家で云うならばそれこそ行のごとというから、朝晩の勤めはきちっと御神前でいうなら一家中の者が御祈念させて貰う。これも素晴らしい心行です。気分のよか時だけ拝むといったようなもんじゃあない。それこそ神様はいつ誰が来ても誰でも拝まにゃおれん位にきちっとした、いうならば奉斎が出来て居る。とりわけ朝晩の御祈念なんかはきちっと行のようにしてなされておる。これが心行です。信心の行です。心行というのは心の行。それに家業そのものが合楽理念に基づくのですから、そういう所までお互いの信心が出た時にね、もうこの理念を以ていわゆる心行、信行、家業の行でいけばいよいよ助かっていく事が出来るとお得意さんに行ってもどこへ行っても話をなさる。話をする一人一人導かれていかれる。助かっていかれるね。我が身におかげを受けてという事はそうい信心だと思う。ならその気になれば私は昨日今村君に申しましたようにおかげを頂いた。その嬉しい心で信心の稽古をさせて貰う。どこに焦点を置くかというと信心、いや心行、信行、家業の行という所に置いてその手立てがあらゆる角度から例えば、家業の行とはと説かせて頂く。しかもどうい決して信心するから又売れた又売れたという事ばっかりではないのだけれども、損になるような事もあるんだけれども、そういう時の頂き方がサンキュウサンキュウでいけばいいんだと、そういう働きが必ず前後に起こって来るというのも、合楽の信心の云うなら、特徴とも言えますでしょうね。
 昨日くの一会の、前日がくの一会でしたから、昨日その芯である伊藤さんですから、伊藤さんお礼参拝してみえられました。最後まで残って後片付けなんかの御用をして下さった方を電車通りまで送らせて頂いて帰らせて頂こうと思うたらすうっと横切った車が9100というナンバーの車が通った。その時身がふるうごと感動したと云われるです。分かるでしょう。91というのはくの一と思うた。10というのは神様が一礼申すとおっしゃる言葉がありますね。教祖の御教えの中に神が一礼申すとおっしゃる。神様が一礼申しておって下さっておる。それはそうでしょうね。。くの一会というのはそれこそ自由自在に自分の心を有り難い方へ有り難いほうへと頂いていく稽古をするというのがあのくの一会。くの一というのは修行の第一という意味なんです。苦労の一番、修行の第一という事です。修行の第一は何というても、くの一修行だと自分の心を有り難い方へ、加藤さんじゃないけれども、困った事がある、前を通ったその車が999だった。やっぱ苦しい事ばっかりだなあと言うのではなくてね、これをサンキュウと頂いた。ここを有り難く頂いていくんだという、そういう神様を見近かに感じながら信心の稽古をしていくのですから、それこそ楽しゅう、有り難く、愉快に出来ていくのが合楽理念である。だからこの理念がです。しかもなら誰でもその気になれば出来るのであるから、何処の国というか、世界万国津々浦々にですね、この訳を話して今まで過去に皆さんが例えばやってきた迷信的な宗教とか、助かろうにも助かりようのないような、いや助かる為には茨の道を歩かねばならんとかね、といったようなものではなくて、こんなにも有り難く、愉快に出来ていかれる道があるんだという事が分かった時に私は助かったという事が言えれると思うですよ。
 だから、皆さんもその体得と実験実証が出来た時に初めて、ここにこういう素晴らしい道があるんですよと人にも伝えていけれると思うですね。何というても一つね、合楽理念のいわばマスターという事を言われてます。マスター。そして実験実証。しようと思うたらそこに困ったという時にでも、むしろここはお礼ば言わんならん事で、分からんならば最近思う事は、神様の御都合という事がもうどういう事があってもね、神様の御都合ですがと言えれる信心を頂けと言うんです。どういう御都合ですかと、いうなら理屈っぽく言う人もありますけれども、神様の御都合に間違いはないんだから有り難く頂く外はないという神の御都合。こんな素晴らしい言葉はないと思う。信心させて頂く者はどんな場合であっても、はあ困った事ですね、難儀な事ですねと、例えば言われてもいや神様の御都合ですよと言えれる信心。ね、だからそういう信心を身につけていくという事が分かるという事をです、合楽理念によってすると誰でもが分かる、成る程と。しかも今言うように、そういう働きがね9110、もういよいよ自分の心の中の感動、そして帰らせて頂いてその自分の家の、ある方がお宅の此の頃御普請が出来られたんですけれども、四方にこう鬼瓦ですか、こうしてあるのが大きくこの打出の小槌だそうです。それを昨日帰りに初めてはあ誰かが言いよんなさったが、ほんなこつ打出の小槌という事を思うていよいよ有り難さは募るばっかりだったというお届けがございましたね。これもまあ同じような話ですけれども、島野悌子さんが昨日お参りして来ました。弟、秋山誠二君が修行しとります。昨日その誠二君の誕生日でした。それで去年も誕生日にお礼に出たけれども、今年も出らせて頂こうと思う。もうこりゃただ弟というて神様の御用をさせて頂いとる。本当に広く大きく御神願、秋山誠二にかけられた御神願が成就する事の為にお願いさせて頂こうと思うて主人に話したら、そんなら何かこりゃ買って行ってくれというてまあお金を少しことづけられた。まあ有り難い。途中に寄ってお米やさんに寄って何か計ってもらったらその秤が三十九キロか三、九キロかという三九の所でぴちっと止まったち。今日はいよいよ神様が喜んで下さっておるなあと思うて、ここへ着かせて頂いたらその出合い頭というか伊藤さんが車に乗られるのと私が降りるのが一つで、伊藤さんのように有り難い有り難いの人に会うた事も有り難かったが、ここへ到着させて頂いてあの入り口の時計が二時三十九分であった。もう有り難い有り難い今日はもうそういう意味で去年よりも少しはましな弟の上の事をです、弟の身の上にかけられております神様の御神願が御成就にあいなりますようにち同じ願いでも段の違った願いが出来るという喜びをここへ昨日お礼を申しました。 素晴らしいでしょう。一年前に上がった時と今年一年後とどれ位自分の信心が進んで居るかという事をね思うて、その内容を充実を願いながらのお参りであったというのです。信心も去年よりも今年と一段一段進んでいってるでしょう。そういう一段一段進んでいく事を楽しみにですね、云うならばどんな場合であっても神様の御都合と頂ける信心が頂けた時にもうあなたは助かっておる。困った事ですねと人が云うて、いいえ神様の御都合ですよと言える。助かっておる。そういう助かりをです、しかも合楽理念を以て説明するならば、誰でもが合点がいくように説けれる、云うなら教えを頂いているという事をです。私は今朝から頂いたオレンジ色の太陽の子ね。勿論オレンジ色は合楽の色と云われますから、私の事でしょう。太陽の子、大きく夢がふくらむと。そういう内容をもっていよいよ自分の願いである大きな願いをです。が、成就していく事の為にいつも夢ふくらませての日々の信心の稽古でなからなければいけんと思うね。
どうぞ。